ダイエー堅田店を東へ約15分。 |
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新田義貞の妻、匂当内侍の墓 命日を守り続けて650年 勾当内侍(こうとうのないし)を祭神とする野神神社(のがみじんじゃ)は、琵琶湖大橋西詰の湖畔にある。勾当内侍は後醍醐(ごだいご)天皇に仕(つか)えて勾当内侍となり、のちに新田義貞(にったよしさだ)の妻となった藤原経尹(ふじわらのつねただ)の三女(藤原行房ゆきふさの妹)のことを指す。 南北時代の武将として有名な新田義貞(1301−1338)は、太平記(たいへいき)によると、足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦って敗れ、越前(福井県)に逃れる途中、勾当内侍を今堅田に残していった。そして2年後の延元(えんげん)3年(1338)に内侍は、義貞の迎えを受けて越前に赴き、義貞が藤島の戦いで討ち死にをしたことを知り、京都嵯峨(さが)に草庵(そうあん)を構えて義貞の菩提を弔いながら余生を送った。 ところが、ここ今堅田に残る伝承では、今堅田にとどまっていた勾当内侍のもとへ、義貞討ち死にの知らせが届いたため、内侍は悲嘆のあまり、すぐ近くの琵琶湖琴ケ浜(ことがはま)で入水自殺を遂げたことになっている。 内侍の死を哀れに思った今堅田の人たちは、内侍をまつる石積みの塚を築き、野辺(のべ)送りをした人々が野神神事衆(のがみしんじしゅう)をつくって内侍の霊を慰めてきた。 その後、観応(かんおう)2年(1351)内侍の菩提寺泉福寺(せんぷくじ)と、明応(めいおう)6年(1497)150年祭の時、塚の場所に野神神社が建てられて、以後、命日の9月9日(現在の10月8日)に野神神事衆によって野神祭りが続けられているのである。 今は11軒に減った「野神講」と呼ばれる野神神事衆の子孫は、9月18日の石塚清掃(泥塗り行事)はじめ、10月8日の野神祭り(お膳を投げる奇祭行事)を、必死に守り続ける。 再来年(さらいねん)には、650年祭を予定しており、直会(なおらい)に今堅田自治会役員が参加するなど、新しい運営方法も模策されているようである。(1997年10月号掲載) |
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