大友皇子の陵墓・7月23日が命日祭 |
[交通メモ]
弘文天皇長等山前陵は 京阪電車別所駅で下車、徒歩5分 |
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天智(てんじ)天皇の第一子・大友皇子(おおとものみこ)を祀る弘文(こうぶん)天皇長等山前陵(ながらやまさきりょう)が大津市役所の真裏にある。市役所駐車場の西側にある細い階段を上ると玉砂利の入り口に出て、20メートルほど進むと鳥居の奥に陵墓が広がる。四面に石垣をめぐらした御陵は総面積約一万平方メートル。全域に樹木が茂る。皇位争奪戦で破れ、二十五歳の若さで亡くなった悲劇の主人公は、どんな思いで眠っているのだろうか。 この悲劇「壬申(じんしん)の乱」は、天武元年(六七二)の六月二十九日に始まる。天智天皇の子・大友皇子と、天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)の間で戦火をまじえた皇位をめぐる骨肉の戦争だった。大和での戦いは、やがて近江に移り主戦場となる。そして七月二十二日、瀬田川での一大決戦で大友皇子は敗れ、湖西地区の要害だった三尾城(現在の安曇川町)も落ちた。 戦いに敗れた大友皇子は瀬田川戦の翌日に亡くなるが、日本書記には「山前(やまさき)に隠れて自ら縊(くび)る」とあるだけ。この山前は山のふもとという意味で、一説には現在の大津市衣川地区にある本田家の屋敷まで落ちのび、馬鞍(うまくら)を柳の老木に掛け、その場で自刃したーとある。その跡が残っている衣川二丁目の鞍掛(くらかけ)神社で大友皇子の命日にあたる七月二十三日(近年は海の日の祝日=今年は七月二十日)に皇子の霊を慰める例祭が今も皇子の侍臣(じじん)中村一族によって営まれているのである。 大友皇子は明治になって弘文天皇として「認知」され、明治十年に園城寺境内の亀岡古墳が御陵と認定されて「長等山前陵」と命名された。この御陵は今も宮内庁の手で手厚く守られ、旧暦にあたる八月二十四日に近江神宮神職らの奉仕で陵墓祭が行われる。(2001年 7月号掲載) |
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