天神山で下車、徒歩3分 |
大津市衣川2丁目の衣川住宅地北側にある鞍掛*くらかけ神社の祭神は天智*てんじ天皇の第1皇子である大友皇子*おおとものおうじ。のち明治になって弘文*こうぶん天皇と追称された壬申*じんしんの乱悲劇の人である。 壬申の乱の時、皇子は瀬田橋の戦いで敗れると、「山前*やまさき」で自殺をするのではなく、社伝によると実は衣川のこの地にいた本田家の屋敷まで中村姓の侍臣*じしんとともに馬を馳せて落ちのびて来た。そこには三尾城落城の知らせが待っており、皇子は馬鞍を下ろして庭前の柳の老樹の枝に掛け、その場で自刃*じじんしたのだという。 付き添ってきた侍臣たちは、この地で帰農し、子孫が代々にわたって皇子の神霊を祭ってきた。神社が建てられたのは堅田の浮御堂より前の元慶6年(882)で、惟喬親王*これたかしんのうの子兼覧王*かねみおうが大友皇子を哀れみて立派な本殿を建立し、保元元年(1156)に源義朝*みなもとのよしともが同社殿で武運長久を祈願。のちに義朝の子、頼朝*よりともが文治元年(1185)、社殿を改修したと伝えられている。 この鞍掛神社の例祭は毎年、7月23日だったが、勤め人が多くなったため、近年は祝日「海の日」(今年は7月20日)に営まれている。氏子は中村姓の「八人の侍」だけ。祭りには衣川の自治会も参加しているものの、神社の維持は1300年の昔から中村一族で守り継がれてきた。 今年の祭りに招待されて参列し、その侍臣魂に驚かされた。明治維新まで腰に刀をさして例祭に参列していたという侍臣の子孫ら。今年の当家・中村貫二氏ほか、平三郎、英男、吉三、清、昭作、うた、五栄各氏8軒の中村家は裃姿*かみしもに正して近江神宮神職の祝詞を受け、永遠の弘文天皇への忠誠を誓うのだった。(2000年9月号掲載) |
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